場面緘黙おとな女子のブログ

場面緘黙の経験者が当時、現在を語ります。

話せないから話せるようになる事

私は2才から場面かんもくで、保育園で保母さんにこの子は自閉症では?と言われたそうです。

うちで喋ってるから自閉症じゃない!と反論した母。


それからずっと性格のせいにされてきた。

ずっしり重たいものを背負い重かった。

家庭は家庭的じゃない母と酒に走る父で団らんをしていると突然父がおこりだし、テーブルをひっくり返すという、あとは子どもを嫌悪し悪口を言って嘲笑うそんなところがある父で


一つ上の姉があんたなんかいいんだ!と常々言ってきて、仲良くすることをしたかったのにできなかった。

仲良くする方法を親から教えてもらわずきた。


バラバラ家族で母にスケープゴードにされ、私が私でなくなり、精神的にもかんもくになるような土壌があり話を聞いてくれない人だったし

仕事が素晴らしいことと思ってる人で


精神的にも実際にも私のでるまくはスケープゴードなので犠牲になるしかなく求められておらず。


こんな私が会社で対人恐怖症になりながら仕事をつづけ、やがて症状が悪化し、重症対人恐怖症になり


なったとたんに両親が急死してくという、


一人ぼっちで話せないまま取り残され家庭内バトルですっかり他人行儀になっているきょうだいはそれぞれ必死で、


重症対人恐怖症のわたしは弟にまで笑われた。


本当に最悪で、許せない。

仲良くしたくて我慢してきたのに、話せない私には家族が大切だったのに。


バラバラ


でも話さなきゃ生きていけなくて、つらいけど話した。

私の話は不自然だ


自然にでた言葉ではなかった。


生きてくために、伝達のために、だけど20すぎで話し出すことは傷つくことが多くて


重症対人恐怖症で人が恐怖の対象になってしまってもいるので、気持ち的に困難だったし、人間不信でもあり、


18で就職し無理やり話したら病気になったと言っても過言ではない。

話せないまま、就職させたのは親だった。


放り投げられただけだった。

悩みも聞いてくれなかった。

家も会社も地獄に思えてた。


どこにも私の居場所はなかった。

それでも両親がいたときは休みの日は

安心できた。



繊細だけど根は明るいと自分を思うので

その性格のせいで救われた。

本当は小学生の時から、生きる楽しみが無くて、本当に死んでもおかしくないくらいだった。


生きるためには、生きる希望や喜びは必ず必要で、

喜びをなんとかかき集める感じ、家族と心で断然しながらなんとか生きた


私は自然と話せるようになったんじゃなく

一生懸命話すことをつらいけどした。


喜んでキャッキャいいたかった

恐いときにうえーんと甘えて泣きたかった。

怒ったときに大きな声で怒りたかった。

おしゃべりを言葉が自由に心が自由にでるまで遊びたかった。ふれあいたかった。


そんなのもできないまんま

保育園に放り出され

黙って自分を守った。


守ってくれるところがないかんじで

放り出され私は黙ったんだとおもう


どんな感情でも出してかまわないという

環境がなかったんだとおもう。


今の私は人間不信を通して人をみてしまうが、人間不信がない人たちは、そうじゃなく


本当に器用に器用に、

本当に恐怖なんかなく

緊張もなく会話を楽しんだりするし

会話がうまい人が


高い評価を受けやすい。


私の今までの努力ってなんだったのか


まあ、


きのう、


喋り方を


あれこれ悪口を三人に言われてた。


すごく嫌だった


でも、


それでも人を求める気持ちが強い人たちを


羨望の目でみる自分もいた。


私は話が不器用だ


だけど、


話せないから話せるようになったんだ。


頑張ったんだ


他の人がしてない努力を必死にした


笑う練習もした


怒る練習もした


みんな18~20まで、ずっと練習した


それでも話し方をからかわれ


精神的に四年で疲れ


病気になってしまったが



家庭がもうちょっと穏やかな話しやすい雰囲気だったなら、そこまで病気にならなかったとおもう。


まあ、昨日は


そんな感じでぐったり疲れたけど、


気にしない


気にしない


それより、信じたい人を信じつづける


人間不信に陥りやすいもろい私だけど


絶対に人間不信に勝つ!