場面緘黙おとな女子のブログ

場面緘黙の経験者が当時、現在を語ります。

生き残りをかけたサバイバルだった

私の人生、うまれた時から父親は怒鳴りちらしていたみたいだし、父親の声はかなり大きいからさぞ、生まれたばかりの赤ちゃんには

轟音だっただろうし


母の実家からきた祖母は父とケンカになり帰ってしまったらしいし、トラブルだらけの中に生まれた。


家は最初、トタン屋根の家で平屋だった。

台風がくると、雨が窓からつたい、そこにタオルをつめていた。


木材でできた壁はあっという間にしけった。

天井からも水がしたたりおち、臨場感のある家で…自然と共に生活しているようで


両親は自営で24時間働くこともあった。

ほぼ365日休みはなかった。比較的冬が余裕があった。

しかし、自営というのは営業とか、それもしておかないと競合する工場にぬかれて仕事がなくなる


だから、いかなる場合でも営業、いかなる場合でもサービス、勉強、最先端の機械を入れるなどし、プログラム作りや、そういうものも抜かれないようにしなければ商売あがったり


なんだと思う


私は子どもの時から電話番をしていて、お茶とコーヒーどちらがよいか、来客に聞いて、お茶かコーヒーを作り、お盆で持っていく役目をしていた。


家の商売はうまくいき、その土地に目立つほどの大きな城のような新築の注文住宅を建てることができた。


だけど、家族はバラバラになっていて

アルコール依存の父や仕事ばかりの母に

ケンカは耐えず、学校から帰ると母がいないとか、


安心できたことがなかった


力がいつもおよばなくて、家族はバラバラになる方向にばかり、私は子どもらしい日日も過ごせず心配ばかり自分のことも、家庭のこともしていた

おまけに、姉がサイコパスのような人で、私を毎日いじめた。


仲良くしたい私はほんとに悲しかったし暗くなった。


それから、就職し、


病気になり


両親が病死し、


一人暮らしになるも、弟は財産をもちにげ


みな、都合よくバラバラ


不器用な私はホームレスになり


姉はよい大学を出て超一流会社員







そこからずっとひとり。


何らかの事件や事故に巻き込まれても

ひとりで対処


示談金の話し合いもすべてひとり。


自分のしたことは自分で決着をつけるしかなく


厳しい



お金がないわたしには厳しかった


弟はずるくて、どうしてそんなにずるいことができるのかわからなかった。


平気でいられる神経がわからなかった。


それから、脳ミソをフル回転し


生き抜いた。


いつもフル回転だった。


わたししかわたしを守れる人はいなかった。


そのときもずっと私は社会不安障害で、


重症対人恐怖症で、うつ状態で、


人はわたしより優れていると思い込んでいた。


私以外の人はすべて私より優れている


それが、どうも認知の歪みで


社会不安障害の一因になっており


そこからぬけて


今になるが


三年前まではバリバリ病気だった


脳ミソフル回転


ずっとフル回転


隅から隅まで使って生き伸びたんだとおもう。


悩みを持ちつづけるのは大変なエネルギーが要った。


ヘトヘトだった。


倒れないか不安で不安で


倒れたらどうしよう


ほんとに倒れたら、




道路上に倒れればいいと腹をくくってた。


道路上に倒れても誰も私の病気や苦しみや悩みを知らない。

ただ倒れている人と受け止め救急車を呼ばれるかも知れないだけだ。


誰も知らないんだから


いざとなれば


倒れても大丈夫といいきかせてたりした。


誰も相談する相手もいないから、答えはないし


息がつまりそうな中を乱れた自律神経が歩く都度に息ぐるしく、呼吸はいつも乱れ、すぐ疲れたのに延々と歩かなければ代わりはなく


坂道でも


ぜんぶ


意識が薄れそうだった。


だから、


私みたいに真剣にフル回転でなんとかなんとか自力で生きてきた人なんていないから


だから、だらだらしてるらしい


それは、以前の精神科医が言ってた


みんな、何にも考えずにぼけーとして


生きてますよ…。


それもみな向こう側の世界だった。