場面緘黙おとな女子のブログ

場面緘黙の経験者が当時、現在を語ります。

不信と不信ではない混在に

苦しむ。


人間不信とは、すでに感覚で


それが生きていくために必要だった感覚で、


まわりもそうで、不信極まりなく。


不信でないとは、人間関係を能動的に築く上で相手を信じること


築くには信じることが必要だが


感覚的、経験的には断然不信にさせるような体験が反復し長い期間、成育期にあると、人間不信の感覚が身に付いてしまう


感覚は人間不信なのに、人間関係を築くには人間不信をある程度払拭しなければ、仕事すらまともにできない。。。


そういうわけで、


人間不信と不信じゃない私を同時にもつ私は、今の環境と、長きに小さい頃からつづいた、人間てこういうもの的なものが、まさに人間不信にあたるものだと経験してきたので


信ずるものがない世界で生きてきた感覚と


信じたい感覚がある


そのはざまが、自己分析で、自己理解、他者理解であり、発見であり、目覚めでもある


人間的に不安定なのは、いつも新しく入ってくる情報を、固定観念や感覚と照らし合わせ、新しく書き換えて行っているから私は人間的に不安定なのだと思ってる。


だから、疲れやすいし…。


ずっとこうした一部分の話だけど、自己改革を心の痛みを感じながらしている。


解離などないにこしたことはなく


自ら学んだことを必ず


負としてだけでなく、豊かさにしてゆきたいのだよね。


解離というか、私は以前離人症に数年苦しめられたが


喜怒哀楽がすべてなくなってしまい平坦化するほど、生きてるのか自分でわからなくなる日々はなかった。